滝山城主 北条氏照

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NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会

滝山城登城記

滝山城駆け足探索

新宿・調布方面からは、京王線で京王八王子駅下車。東京・千葉方面からはJR中央線、横浜方面は横浜線でJR八王子駅下車。改札を出て、北口ロータリーに向かう。そこから、バス(戸吹行または、杏林大学行)に乗ると約20分、「滝山城祉下」バス停で降りる。


滝山城祉入口の看板を左に見て、幅2メートルほどの狭い道を、北に歩く。都立滝山公園入口の表示板が右に出てくる。アパートを左、右にキノコ農家の看板が見える。突如、前方に竹藪の茂った薄暗い坂が現れる。舗装はしてあるが、道の両側には枯れ葉や落ち葉が積もっている。急勾配の坂が延びているのが判る。少し昇ると、道は90度、急に左に曲がる。きつい登りだ。滑ることはないが、足元を気にしたくなるほどの勾配だ。道の両側は切り立った崖が立ち上がっている。頭上に赤い神社の建物の端が見える。一歩足を踏み入れると、不思議な緊迫感が漂う。異界に入った様な気になる。そこでまた、右へ90度、急に道が廻る。きつい登りが続く。地面が舗装されていなければ、足を滑らせるだろう。空気が少し冷たい。これが滝山城の大手口、正面入り口だ。


さらに真直ぐ進むと、右側には埋もれ浅くなった堀が見えてくる。堀に目を凝らすと、奥の方に続いているのが分かる。堀を上からのぞき込むように、背の高い壁が立ち上がっている。土の壁は崩れているが、十数メートルはあろうかという険しさだ。杉の木が群がっているのでよくはわからない。さらに舗装された坂道を登る。前方が少し明るくなってくる。峠道にさしかかっているのがわかる。「三の丸跡」の標識が目に入る。先ほどの高い壁は「三の丸」の壁であったことが知られてくる。


左には開けた雑木林が続いている。ほとんどの人が歩くことがない「小宮曲輪」、「山の神曲輪」へと通じる道である。登ってきた道は,しだいに平坦になり、緩やかなS字のカーブを描いている。右手に都立滝山公園の標識が建っている。屋根の付いた案内板が並んでいて、公園のパンフレットなどが差し込んである。

城跡とはいえ、石垣も、壕も、天守閣もない城らしい。


さらに緩やかなカーブの道を進むと、今度は厳しいS字のカーブがあり、両側が掘られ削られているようだ。壁の上を歩いている感覚だ。土橋(ドバシ)の跡だろうか。「空堀・土橋」という標識が立てられている。城跡といわれるが、石垣も、水濠も、天守閣もない。典型的な中世の山城らしい。

さらに進むと、右側に小さいT字型の登り口がある。突き当たりの生垣を通して、なんと空が見えるではないか。千畳敷きの入口である。リトルリーグの野球なら出来る広さ。木製のベンチがいくつか見える。その西側には、「山の神曲輪」、「池あと」、あきる野市、そして秩父の武甲山と緑の峰々のひろがりが望める。絶好の景観である。右側には、北条流の千畳敷「角馬出」が配置されている。「千畳敷」には、氏照の時代、大きな建物があり「迎賓館」の役目を果たしていたのではないか、ともいわれる。

千畳敷を退出して先程の道に戻る(往時は、これより先、二の丸方向には「西馬出」があり、現在のような道はなかったといわれる)。

千畳敷「角馬出」の北側、二の丸方向には、深い空掘が続いている。杉の木の樹頂が、目の高さになるほどに深い谷底から生えて出ている。多分二十メートルくらいあるのかも知れない。右側にも深い空堀の様子がうかがえる。二の丸の堀は相当の土砂に埋まっているようだ(往時は、「二の丸」より先には行かせない、という北条流の「二の丸集中防御」の構えがみられる)。

千畳敷の「角馬出」を出て、現在の舗装されている曲がり道を過ぎると、右手に「二の丸跡」の標識が目に入る。奥が一段高く、台地状になっていて、その先がまた一段高くなっている。気にせず前に進む。道は真っ直ぐだ。


T字路に出る。「さくらの名所」の赤い看板が立っている。左が城の中心らしい。(往時は、城の中心に現在のように簡単に入れるわけがなく、「秘密の空間」であったはずである。)左に進むと、左眼下に大きな空間が広がる。崖の上を歩いているのだ。右側は鉤の手状の急なカーブの登り道になり、そこには公園の掲示板が立っている。ここが「中の丸、桝形虎口だ。登ると新しいトイレの建物があり、「中の丸」の広場に出る。十分に駆けっこができる広さだ。広場の中心に 案内板が立っていて、「本丸」の指示板は左方向を指している。


左に進むと、大きな木橋に出る。木橋は、深い堀の上に架かっていて、現在は、堀は滝集落や高月に通じる石畳の道となっている。


木橋を渡ると、説明板が目につく、発掘調査の結果が細かな字で書いてある。直角に曲げられた「本丸、枡形虎口(マスガタコグチ)」の跡だ。横矢攻撃をしやすいように作られている。そこには排水溝があり石が敷き詰められていた。矢倉台も立っていたはずだ。突き当たりを、右側に緩やかな階段に沿って登る。曲がった先は、大きな空間だ。左手に国定史跡「滝山城跡」という石碑が建っている。建物跡らしいものは何もない。


奥の方には鉄製の枠に囲まれて、当時を髣髴とさせる深い井戸跡がある。現在では、それ以外に本丸跡には、往時をしのばせるものは何もない。広場の北側の石段を登ると、本丸が二段になっているのがわかる。一部が、神社になっていて、日露戦争の戦死者を祀っている。もう一つは、水運の神様、金毘羅神社である。その先には、秋川、多摩川の大パノラマが広がっている。眼下には滝の集落の田んぼが一望される。足下に多摩川の渡し場があったに違いない。


この城が、多摩川と秋川に大きくこだわって建てられたのに気づく。

本丸は崖の上に立っていて、秋川、多摩川を見下ろす位置にある。当時の川の文化が想起される。滝山城が渡河点という要衝の地に築かれていることがよくわかる。木橋を戻って、再び中の丸を歩くと、北側は崖、東側は深い沢に面しているのに気付く。北側の崖からは、本丸と同様の多摩川の大パノラマが望める。多摩川の堰が見える。


中の丸から、再度、二の丸方向に戻る。現在の道は二の丸を縦断している。この縦断路を直進すると道は急に右にカーブし始める。90度近く曲がると、道はやや細くなり、左右に堀が見える。堀の縁を歩いている感覚になる。土橋状の道だ。さらに進むと道は、右に曲がり、左右に堀が現れる。また堀の縁を歩いている。その先はやや広い空間になっている。「大馬出」といのだそうだ。桜の樹が空間を囲むように沢山植えられている場所が、二の丸「大馬出」だ。その奥手には、約40年前(昭和46年)、5000本の桜の植樹を記念した石碑が建っている。この大馬出を、さらに西に進むと、細い空間の馬出に出て、右手は、深い堀を隔てて、二の丸が高い壁のよう見える。仰ぎ見るほど高い。右手は、崖で深い堀になっている。この場所(土橋)に立つと、二の丸側(「南馬出」)矢倉台からの守り手に見下ろされ、横矢の集中攻撃を浴びただろう。逃げる場所がない。死の空間である。

この土橋を過ぎると、さらに次の土橋が待っている。その先は千畳敷「西馬出」へと続く。最初の土橋を過ぎたところから、二の丸へと通じる土橋がある。そこを入ると二の丸「南馬出」に出る。直進すると、先ほどの、二の丸の縦断路に戻る。先程と同様、急なカーブを曲がって土橋を渡り馬出に出る。今度は、そこを左に廻る。土手伝いの道に出る。左に高台の台地が続き、右側は眼下に草原の深い谷間を見下ろす。無数の桜が林立している。5000本桜の一部だ。

桜の林の向こうに平行する峰の稜線が見える。土手道を進むと、左に「信濃屋敷・刑部屋敷跡」という標識が立っている。家臣屋敷跡と書いてある。左側は小高くなっている。さらに道を進むと、木橋が現れる。下を見ると非常に深い堀になっている。この引き橋の部分までが城の中心部である。右側には「池あと」方向を警戒する矢倉台があったはずである。


クヌギ林を1kmほど進むと、四枝路に出る。直進すればクヌギ林の尾根伝いに国道16号に出る。右折すれば、城主、北条氏照の建てたといわれる少林寺を経て、滝山街道に出る。左折すれば、権現坂である。多摩川の岸辺に出るはずだが、篠竹がはびこり現在は工場の敷地に出てしまう。


以上が滝山公園の滝山城趾ブラウジング(縦断記)だ。

(実際の光景は、ハイキングルート1を参考にしてください。)

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